覚悟が持てない

8月下旬から9月1日は、小中高生の自殺のピークだ。
報道自粛により個別の事象を耳にすることは少なくなったが。

 


小学生の頃から、自殺願望を抱いている。
歳を重ねることに、何かにかこつけて理由は変遷した。

 

小2では「同級生からいじめられ、担任に相談しても助けてくれなかった」

中学時代は「行きたくもない地元中学に通う苦痛」「小学生の頃のいじめっ子はじめ十数年間で恨みを持った人への復讐心」
これは推測。当時の理由は結構忘れた。

 

高校時代以降は「成人後への悲観」
高校時代、大学には行きたい癖に現役時代は学びたい分野も卒業後にやりたいことも無かった。人生のピークは十代、人の価値は成人を機に激減すると思っているので、惜しまれるうちに死にたかった。

 

また、働くことを心を殺すことと同義と捉えた節もあった。
二十代の間、主観的には多様と感じられた世界に触れることで多少緩和できた。
環境が合えば働くって面白くなるし、組織人にならずとも働く術があることも知ったし。

 

大学3年以降か、いつからか忘れたが「社会への絶望と諦念」
実際にはそれ以前から永く抱いている。

 

社会が混沌としようがただ生きるだけ、という信念のもとでは消し飛ぶ動機。

しかし、自分を含めた99%の人間が世界の支配者側に搾取されるために生かされていると考えると、逃避と反逆をないまぜにして死にたくなる。もっとも、反逆は生きてこそ為せると思うので、純度100%の逃避になりかねないな。

 

脱線するが、宗教や法で自殺を禁止したり防ごうとしているのは、奴隷が減ると社会の運営が滞るためだとある意味思っている。
自殺対策に尽力する方々には、その意図はないことは承知している。当事者の幸福と自死遺族の負った心身・生活の困難の緩和に手を尽くす関係各位には敬意を表す。せめて、彼らの迷惑にならない場所で逝くよう配慮する。

 

ここ数年で追加された動機は「物語が焼かれる世界で生きたくない」


ネットのフィルタリング、軽減税率、TPP、クレジットカード会社やwebプラットフォームによるアプリや商品販売規制、青少年健全育成の美名の下に過激な性表現や暴力表現を規制する動きを図る勢力、自己にとって不快な表現を潰したいだけの「お気持ち自警団」「まなざし村」と形容される勢力、一部宗教の信者……

恣意的か否かに関わらず、勝ち得たはずの表現する自由を焼いてどうするんだ。物語をこよなく愛するオタクの私は、物語が滅んでいく世界に楽しみを見出せない。


くだらないと一蹴されるにしても、これだけの動機が堆積する。
最後の2点は、私の生活状況が改善されても悪化の一途を辿る要因だ。

 

それなのに、何故、生きようと足掻くのだろう。

 

外野が「人生の敗北者」「失敗を確定させた」と謗っても私は気にしないのに。
私自らが人生失敗の烙印を押して満足しているのだから、それでいいのに。


2008年6月8日ーー秋葉原に遊びに行っていれば最も美しく、きりの良い幕切れを迎えられたかもしれない。迎えたかった。10年経ても、6月8日に顔を出す未練。
6月3日だか4日に行って満足せず行けば良かったのに。(日付うろ覚えカッコワルイ


胸に残る自殺への覚悟を開花するために、生きようとする自分と闘う。